みやわきろく[再]

ミニマリストで毒親サバイバーなOLの生活記録

進学と就職だけは親の言いなりになってはならない(後編)

進学と就職にまつわる昔話、後編です。前編はこちら
mywk6.net

【あらすじ】
両親の無計画さが原因で進路の選択肢が大幅に狭められてしまった「わたし」。
当たり前のように志望校に合格し、大学生になることにはなったのだが…

絶望のキャンパスライフ

無事大学には入学したものの、その生活はちっとも楽しくなかった。
ランクを下げたために授業のレベルが低く、周りの学生とも話が合わずまたしても自然と孤立していくことになった。

「大学生はサークルに入るもの」という固定概念があったのでとりあえずアメフト部のマネージャーになってみたが、これまでずっと吹奏楽部にいたため体育会系のノリに馴染めなかった。酒に弱い部員を潰れるまで飲ませる、という風習も嫌いだった*1。なぜアメフト部だったかというと、当時アイシールド21という漫画にハマりまくっていたからというオタク的な理由しかない。黒歴史…

わたしはわたしなりに大学生活に馴染もうとしたし、楽しもうともした。けれども、そもそも大学自体自分が行きたかったというわけではないし、やりたいことがあったわけでもない。もともとのモチベーションが低いのだから、何をするにも気持ちがついてこなかった。授業をサボって、家でニコニコ動画を見続ける*2ような日もあった。

唯一の救い

打ち込んでいたことといえばアルバイトとバンドの追っかけだった。
当時はまだJanne Da Arcが活動をしていた頃で、奨学金とバイト代を追っかけ活動にひたすらつぎ込んでいた。

Janne Da Arc Live2005 ~Dearly~ [DVD]

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それまでアルバイトもできず、すごく少ない*3小遣いでCDを買ったりライブに行ったりしていたところを、急に月5万円や10万円も得られるようになったのだからそのエスカレートぶりはたやすく想像できるだろう。ライブがあるとなれば地方も含めて遠征し、グッズを買い漁るようになった。親からは「学費を払うために奨学金は取っておきなさい」と言われることもあったが、「そもそも奨学金借りる羽目になったのはお前らのせいだろ」と内心感じていた部分もあったのであまり耳を貸さなかった。この奨学金は20年近く経つ今でもまだ自力で返し続けている*4

第三者から見ればわたしの行動は羽目を外しているかのように思えたかもしれない。
けれども、憂鬱でしかない学生生活を何とか乗り切るためには、音楽の力がどうしても必要だった。それがないとわたしはわたしでいられなかった。
思い返せば中学生の頃から、好きな音楽に触れているときだけは自分を取り戻しているような感覚があった。それは、その音楽が親から与えられたものではなく、自分の手で選択したものであるからに他ならない。取りうる選択肢をすべて親が先に決めてしまう世界の中で、音楽の世界だけはほんとうのわたしを肯定してくれるような気持ちになれた。音楽だけが、人生におけるわたしの救いだった。

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  • アーティスト:SIAM SHADE
  • 発売日: 2003/12/17
  • メディア: DVD
このDVDだけは幾度の断捨離を乗り越えて手元に残っている。

就職活動と挫折

そして大学3年、就職活動の季節がやってくる。
かれこれ中学生の頃からホームページビルダーでWebサイトを作ってみたり、自分でレンタルサーバーを借りたりしていたので、WebではなくともIT系の仕事をしたいなあとぼんやりと考えていた。そしてものづくりも好きということで、「関東圏でSEとして働く」という目標の元就職活動を始めることになった。
就職先に関して両親は何も言わなかった。大学受験の際に無理を呑んでくれたのだから就職先くらい好きに決めさせよう、ということだったらしい。
就職先に関東圏を選んだのは、実家から出たかったこととオタク活動がしやすくなるようにという目的がある。どんなイベントであれ東京が中心になるのだから、活動がしやすくなるように関東圏に拠点を置こうと考えたのだ*5

当然、就職活動は難航した。売り手市場ではあったものの、自分に自信がなく大学生活をただ無為に過ごしてきた学生を採りたいと思うような企業はそう多くはないだろう。自分が採用担当なら、当時の自分は面接で容赦なく不採用にしていたと思う。履歴書上のスペックが高くても内面が伴っていないからだ。
焦りもあった。ろくに自己分析もしないままひたすらエントリーし、面接でことごとく落とされ、自分の無価値さに悲しみつつも一番最初に内定をくれた会社にそのまま就職した。もはや疲れ切っていた。就職できればどこでもよかった。

その会社が「限りなく黒に近いグレー」な会社であると気づくのは、それから数年後のことだ。
(これまた長くなるので今回は割愛)

親の言う通り=幸せ?

親の言うとおりに進学先を選び、就職をしてもちっとも幸せにはなれない。
これはこの記事の発端になった「親の言うとおりにして月収11万円」の人の例からも、そしてわたしの例からもわかるだろう。
親という立場であるからといって、自分とは違う人である子の人生の選択を勝手に行うことは許されないとわたしは思う。また、選択に関する責任を親は一切負ってくれないし負おうともしない。そもそも責任を負うという考えがない。だから親の言うことなど聞く耳を持たなくていい。無責任に自分の考えを押し付けるだけの他人なんて放っておけばいい。

わたしは「頑張って勉強する」ということだけは人よりもできたので、それなりの学力があり落ちこぼれることはなかった。それだけが救いだった。お金ばかりで幸せが決まるわけではもちろんないが、とりあえずこのコロナ禍でも何とか生活できる収入を得ているのはそれまで真面目に勉強をしてきたおかげなのではないかと感じている。

現在におけるわたしと親との関係だが、1年ほど前から絶縁状態にある
精神疾患を抱えたわたしに親が寄り添おうとしなかったことをきっかけに「毒親」という概念を知り、これまで自分がいかに親のわがままに振り回され続けていたかわかった。特に母親は歳を重ねるにつれそのわがままぶりが一層悪化していること、歳をとると考え方も凝り固まるので手が施せないこともわかってきた。

「自分はこのままこのわがままジジイ・ババアに振り回され続ける人生を送るのか?」
「それとも、家族の縁を断ち切ってでも自分の人生を自由に生きるのか?」

自身に問い続けた結果、わたしは後者を選択した。
一旦出戻った実家を離れ夜逃げをするように一人暮らしを始め、電話番号も変えて一切の連絡を断った。きょうだいの連絡先も知らないので両親の身に何かあったとしてもわたしに連絡はこないだろう。だがそれでいいと思っている。
彼らはただ戸籍上わたしの「父」「母」だったというだけで、精神的には「父親」でも「母親」でもなかった。冷たい言い方かもしれないが、わたしにとってはもはや他人なので生きていようが死んでいようがどうでもいい。もう一切関わらないでほしい。それだけが願いだ。

自分で「選択」した人生

コロナ禍によるストレスや恋愛がうまくいかない悩みはあるけれども、両親と絶縁してからの人生は本当に楽しいものとなっている。悩みも苦しみも他人から強いられたものではなく、自分で選択した結果に基づくものだから納得ができるのだ。

これまで書いてきたとおり、高校生〜大学生のときに起こった一連の出来事は本当に理不尽で納得がいかないし、あの頃に戻ってやり直したいと思うこともある。けれども、あの体験がなければこんな記事は書けなかった。自分はうまれに関係なく、努力で道を切り拓くことができる力を持っていたのだということもわかった。だから理不尽ではあるけれども、決して無駄ではない出来事だったのだと今では胸を張って言える。

「わたしはわたしの人生を生きる」

これはわたしが去年の初め頃にインスタに書いた宣言だ。
まだまだ他人軸になってしまう瞬間はあるが、「わたしはどんな人生を生きたい?」と問い続けながら生きていこうと思う。

*1:嘔吐恐怖症なので飲み会となるといつもビクビクしていた

*2:当時全盛期だった。テニミュ吹き替えばかり見ていた記憶がある

*3:大学にも行けないほど貧乏だったので

*4:第一種なので無利子。あと2年くらいか

*5:だからこそ「東京ばかりずるい」と文句を言う人とは相容れない。自分が選択して地方にいるのだから文句を言うべきではないと感じてしまう