みやわきろく[再]

ミニマリストで毒親サバイバーなOLの生活記録

「ミニマリストやめます」に対する違和感

昨今ブログなりYouTubeなりで語られるようになった「ミニマリストやめます」に強烈な違和感を覚えました。
なぜ違和感があるのか?を掘り下げていくうちに、ミニマリストとは何なのか?というところまで整理できたので記録として残しておきます。
あくまでもわたしなりの考え方ですので、やめます勢の方々を非難する意図はないことをご理解ください。

「ミニマリスト」って何だったのだろう

わたしは自分自身をミニマリストだと思っています。

一般的にミニマリストというとこんなイメージがありませんか?

  • 部屋にカーテンすらない
  • 寝袋で生活している
  • コンビニが冷蔵庫代わり
  • 服の組み合わせが固定化されている

こういった極端なイメージが付きすぎてしまったせいで、「わたしはミニマリストです」と堂々と言いにくくなっているように感じます。
「自分はミニマリストだ」と話すと「えっ!?じゃあ家に冷蔵庫ないの!?」って言われて困惑した、なんて話もよく耳にしますよね。

我が家には洗濯機はありませんが、冷蔵庫はあります。
炊飯器はありませんが、コーヒーメーカーはあります。
テレビはありませんが、プロジェクターはあります。

一人暮らし→実家→一人暮らしという居住形態の変化やコロナ禍を経て自分の身の丈を客観的に観察してみると、惰性や見栄で所有しているだけのものがたくさんあるということに気づきました。不要だと思ったものは躊躇なく処分し、本当に必要だと思えるものを少しずつ買い足していきました。

上記の「寝袋で生活している」レベルの方から見れば、不要だと思われてしまうものはたくさんあるでしょう。
それでも、我が家にあるすべてのものはいつ「これ必要?」と聞かれても「これは○○で1年以内に使う」と回答できる自信があります。
逆に言えば、答えられない、または使う機会がはるか先のものは手放す対象になっている、ということになります。

現代的な「普通」の生活を送るために最低限必要と考えられているものが、果たして自分にも必要なのか。
自分にとって「普通」の生活を送るために最低限必要なものは何なのか。

自分自身を見つめ直し、その結果としてものごとの要・不要やその選別基準を自分なりに整理できた状態のことを「ミニマリスト」と呼ぶのだとわたしなりに定義しています。
「ミニマリストやめます」に抱いていた違和感の原因はこの定義のズレにありました。

ミニマリストは「なる」「やめる」もの?

わたしの定義における「ミニマリスト」は、人の属性ではなく思考の状態を指しているとも言えます。ですので、実際にその人が所有しているものの量や質は関係がありません。
部屋の中に物がいっぱい溢れていたとしても、その人の選別基準が明確になっており他人の価値観によってブレないのであれば、その人は「ミニマリスト」なのだとわたしは考えています。

「#ミニマリストになりたい」というハッシュタグがあります。
そのタグを使っている人たちの心のなかには「自分の周りにはまだモノが溢れているからミニマリストなんて名乗れない」という気持ちがあるのかなあと勝手に想像しているのですが、「なりたい」ではなく、「なりました」と堂々と言ってほしいなあと思います。
「なりたい」と思い実際に行動に移そうとしている時点で、ものごとの要・不要を整理している、またはしようとしているのですから、「無駄な物がない部屋で生活していなければミニマリストなんて名乗ってはいけない」という風潮など気にせず、「ミニマリストです。ものは今減らしています」くらいの気持ちでいてほしいなあなどと感じています*1

では「なりたい」の逆、「やめます」はどうでしょう。
自分にとっての要・不要を整理できた状態から整理できていない状態に戻す、なんてことはできるのでしょうか?
一度知ってしまった、理解してしまったことをきれいさっぱり忘れるということは、よっぽど長い期間をかけない限りは難しいのではないかと思います。
日々を快適に過ごすために家の中のものを増やすということであれば、その増えた「もの」はその人にとって「『普通』の生活を送るために最低限必要なもの」だと言えるのではないでしょうか?

ミニマリストに「なる」とか「やめる」とかはものの総量で考えるのではなく、「無駄にしない」「大事に使う」という気持ちで考えるともっと楽になるのかなあ、なんて思います。
もともと日本は「もったいない」の文化がある国ですし、日本人みなミニマリスト!くらいの気持ちでもいいのかもしれませんね。笑

まとめ

繰り返しになりますが「ミニマリストやめます」「ミニマリストになりたい」と話す方々を非難するつもりはまったくありません。
わたしが伝えたいのは、メディアが広めてしまったイメージに左右されて自分の軸を見失わないようにしませんか?ということです。

よそで作り上げられた定義を自分に当てはめて「自分は○○だ」「自分は○○とはいえない」「○○をやめます」と決めてしまうのではなく、世間一般の定義をまずは疑ってみる。それから、自分自身のことばで改めて定義し直してみる。そうすることによって、周りの目を気にせず「わたしは○○です!」と胸を張って生きていけるのではないかと考えています。

*1:もちろん、これもわたしの勝手な考えなので「そんな考えもあるんだな」程度で受け流してください